社会福祉法人 はらから福祉会(以下、はらから福祉会)は、宮城県で就労継続支援B型事業所7カ所、多機能型事業所1カ所、グループホーム8カ所を運営している社会福祉法人です。B型事業所では豆腐、油揚げ、パン、かりんとう、牛タン、プロテイン、レトルト製品などの食品製造・加工やピザレストランを経営しています。利用者支援面では機械化とチーム化により、障がいの重い人でも高い付加価値を生み出せるしくみを構築し、年間売上10億円前後、利用者の工賃は月額約7万円を実現する事業所も出てきています。「工賃は支援力のバロメーター」と断言する、創業者である前理事長の武田元さんに、働くことの意味、支援のあり方について、すばるコレクト運営の生田目康道が話を伺いました。(取材:2025年12月12日)
戦後の貧困と教師時代の辛い経験が開いた福祉への扉
生田目康道(以下、生田目):まず、はらから福祉会を始められたきっかけを教えていただきたいと思っております。何が武田さんを突き動かしたのでしょうか。
武田元(以下、武田):私は1942年(昭和17年)、太平洋戦争が始まった翌年の生まれです。戦後の最も貧しい時期に育ち、冬は隙間だらけの家で木炭のこたつで震えながら暮らしました。5人兄弟の長男として、空腹と寒さに震えた貧しさの体験が私の原点の一つです。
23歳で高校の教員になり、遠方のため単身赴任となりました。その3年後に父親が体調不良となり、4人の弟、妹たちが中学生・高校生だったこともあり、地元にある肢体不自由児が通う養護学校(現 特別支援学校)へと異動しました。しかし、それから4年後、以前の高校教師として働いていたころに戻りたいという自身の気持ちを抑えきれず、一般の高校へ異動しました。ところが、生徒たち、そして親御さんからも「武田先生は一緒に頑張ってくれる人だと思っていたのに、逃げるんですか」と批判されました。そのことばが正しいだけに、夜に布団に入っても悔しくて悔しくて眠れない日々が続きました。
時が経てば悔しさもおさまるだろうと思いましたが、1年、そして2年経っても悔しさはおさまりません。むしろ強くなります。悩んだ末、「逃げたところへ戻ろう」と決心しました。
第二の原点は、恥ずかしながら養護学校へと戻ったことです。「もう二度と逃げない。障がいをもっている人たちとやれるところまでやってやろう」と思いました。

▲はらから福祉会 前理事長 武田元さん
生田目:30代前半で進む道が見えたのですね。
武田:そうです。養護学校に戻ってから、しばらくは、卒業生の進路指導の一環で雇用先になりそうな職場を回りました。雇い入れ先をなかなか決めることができず、改めて教師の無力さを思い知らされました。しかも、第一次オイルショック(昭和48〜49年)のころ、やっと就職を決めて巣立っていった卒業生が次々と解雇されたんです。中東の戦争やイラン革命の余波が、最も弱い立場の人間を直撃していると思いました。
実はそのとき、卒業生のなかから自殺を図ろうとする者が複数出たんです。「これからは教師という立場を超えて、障がい者の問題に取りくもう」と、はらから福祉会の元となった組織の立上げを考えました。












